(日本語)
1944年秋から45年8月の第二次大戦終了まで、米軍は東京に対して、100回以上にわたる大規模な戦略爆撃を続けた。爆撃の対象は住宅密集地で、使用された爆弾は焼夷弾(爆発のみならず火災によって殺傷力を高めた兵器)であり、民間人を標的とした無差別の殺戮であった。中でも1945年3月10日未明に行われた爆撃は、300機以上の戦略爆撃機B-29が出撃し、死者10万人、被災者100万人に上る、世界の戦史上稀にみる大量虐殺であった。この日の空襲は特に東京大空襲と呼ばれる。
東京都は、3月10日を東京都平和の日とし、犠牲者を追悼するために黙祷するのが習慣となっている。
(スペイン語訳)
Desde el otoño de 1944 hasta el mes de Agosto de 1945, fin de la Segunda Guerra Mundial, las fuerzas de los Estados
Unidos efectuaron más de 100 masivos bombardeos
estratégicos sobre Tokio. Estos fueron masacres indiscriminadas
de civiles, ya que tuvieron como objetivo zonas densas de población. Fueron bombas de fuego,
las armas con mayor
poder letal no sólo por la explosión sino por
el incendio. De entre estos bombardeos, el que
tuvo lugar en la madrugada del 10
de marzo de 1945, con la participación de más de 300 aviones de bombardeo estratégico tipo B-29, causó cien mil muertos
y un millón de daminificados, siendo un genocidio señalado
en la historia mundial de la guerra. Por ello el ataque aéreo del 10 de marzo se
denomina especialmente el “Gran Bombardeo de Tokio”.
El Gobierno Metropolitano de Tokio designa el 10 de marzo como el Día de la Paz
de Tokio y es costumbre realizar una oración silenciosa recordando a las víctimas.
(解説)
当時神田三崎町に住んでいた私の母親は、ほぼ毎日、空襲警報とともに近所の防空壕に駆け込んでいたという。私も子供の頃、その防空壕に行ったことがある。穴倉の天井は薄い板で、直撃されればとても耐えられない代物だったので、「生まれる前に殺されずに」今生きていられるのは、奇跡ではないかと感じた。一睡も出来ずにこの狭くて暗い防空壕で、身を縮めて毎夜を過ごすのは、想像を絶する恐怖だったろう。東京大空襲後の写真を見ると、本当に悲惨な光景である。
1937年4月26日にはドイツ軍がスペインのゲルニカを爆撃して多数の死傷者を出した。ピカソがこの悲惨な爆撃を描いたのが、今マドリードの近代美術館に展示されている「ゲルニカ」である。彼がもし1945年東京にいたら、どんな絵を描いただろうか。
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